自分は、本をただ読むことにそんなに意味があるとは思っていない。
重要なのは『読むこと』ではなく、『読んで、それに対して何を思うのか』であると思っている。
なので、ところどころに引用を挟みながら、それに対しての感想を書き連ねていきたいと思う。
現代社会はあまりに複雑で、すべてを見通せる視線はもはや存在しない。
それはすなわち、古典的な選良が存在しないことを意味している。
いま「選良」と呼ばれる人々は、現実には特定の「業界」の専門家でしかない。
彼らはその業界を離れれば、平凡な消費者、無見識な大衆の一員にすぎない。
一流の政治学者が凡百なベストセラーやポップスに涙し、一流の経済学者がネット右翼と変わらぬ偏見を持ち、一流の数学者がじつに凡庸な国家観や家庭観を語ることは十分にありうる。
実際にインターネットのようなソーシャルメディアは、かなりその身も蓋もない現実を暴いてしまっている。
つまり現代においては、選良と大衆という人間集団の対立があるというよりは、ひとりの人間が、あるときは選良として、またあるときは大衆として社会と関わっていると理解したほうがよい。
「大衆の欲望」は、その各人の大衆的な部分の集合として形作られている。
それに加えて、選良が大衆を指導する、啓蒙するという構図そのものも問題を抱えている。
その発想は現代にはそぐわない。
それは、20世紀的な、いやむしろ19世紀的な単純な人間観に基づいているように思われる。
なんというか、あえて反論する箇所もないというか、これには全面的に同意してしまう。
今の社会というのは極めて複雑で、その社会の全ての分野に詳しい人間なんて居ない。
「専門家」なんていうものは、その専門領域を離れればただのトーシロで、偉そうな大学教授や政治家がTwitterなどでトンチンカンなことを言ってアホ晒しているのを山ほど見る。
そういう「専門家」が大衆を啓蒙するというのは、現代にはそぐわない、、、というのは自分も前から思っていた。
だいたい、「啓蒙」とは何様なのか?と。
常に正しいことを言う人間など居ないわけで、大事なのは熟議であると私は思っている。(実は一般意志2.0で東浩紀は『熟議』という形の政治を否定してはいるのだが)
だから、「啓蒙」などというとても上から目線で、酷く高圧的な発想が嫌いである。
ナショナリズムには、自由主義や社会主義や共産主義のような哲学的な基礎が欠けている。
にも関わらず、それは不思議なことに世界中の人々を惹き付け続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。
ナショナリズムとはまずは情念の問題なのだとすれば、ナショナリズムに駆動された国民に対して、欲望の対象がいかに魅力を欠いているのか(国家がいかに虚像で覆われているか)、欲望の実現がいかに「高くつく」ものなのか(排外主義がいかに経済的に損になるか)、一生懸命説いたとしてもたいして効果は望めないのもまた当然のことだろう。
実際に過去四半世紀、知識人たちは理知的なナショナリズム批判をあちこちで繰り返してきたが、政治的にはほとんど影響力を持つことができなかった。
ネイションはいまでも欲望されている。
ナショナリズムもまた、理性や言葉の力ではどうにもならない物質性を帯びていたのである。
大衆はナショナリズムに走る理由はなんなのか?というと、それはもう本能的なものであるとしか言いようがない。
『個』で考えると、ナショナリズムは非効率的なものに過ぎないのだが、『国』で考えると、ナショナリズムはある程度必要に なるのである。
それを理解しやすくするために思考実験をしよう。
A国とB国があるとする。その2国は隣り合っている。
A国はナショナリズムが浸透している国だ。
良く言えば規律を遵守し、愛国心の強い国民が多い。
悪く言うと盲目的だ。
B国はリベラリズムが浸透している国だ。
良く言えば自由な国だ。
悪く言うと自分勝手で利己的な国民が多い。
ある日、様々な事情から、A国とB国は戦争状態になった。
A国とB国の国力が同程度のものだとしたら、どちらが勝ちやすいだろうか?
結論から言うと、勝ちやすいのはA国である。
A国の国民はその愛国心の高さから志願兵は続出するし、士気も高い。
B国の国民はあまり戦争に参加したがらない。
それを見かねた政府が徴兵制を導入すると、国外逃亡する国民まで出て来る始末だ。
つまり、人間の殺し合いである戦争の歴史から自然発生し発展した概念がナショナリズムなのである。
そのナショナリズムが情念的で、理性を欠いているのは当たり前のことなのだ。
もう書くのは疲れたのでここらへんにしとくが、引用した文章は実は一般意思2.0の主題部分ではない。
主題部分ではないのだが、東浩紀という人間の個人的な思想に共感し、ここが気に止まってしまった。
なにはともあれ、『一般意志2.0』を通して東浩紀は要するに何が言いたかったのか?というと
・国の政治は国民の『一般意志』に基づいて行われるべきである、とルソーは主張していた
・現代のIT技術を駆使することで、国民の無意識に存在する『一般意志』をある程度掬い上げることは可能
・その掬い上げられた『一般意志』を意識して政治は行われるべき
ということである。(と私は解釈した)
タカユキの三日坊主ブログ
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